組織概要
沿革・あゆみ
鹿妻穴堰の歴史は今から約420年前、南部氏26代信直公によって三戸(青森県)より不来方(盛岡市)の地に居を移すべく移築工事が開始された2年後の慶長4年(1599)に始まります。
当時、南部藩経営のための水田耕作地域の拡大を計ることを目的とした信直公の命を受け、金山師であったとされる鎌津田甚六(かまつだ じんろく)が、現在の盛岡市西側より流れくる雫石川にせり出した湯坂山の連崖険長根(つるぎながね)に、長さ約6間(約11m)、巾約1間(約1.8m)のずい道を掘削して雫石川の流れを導入し南部藩御用水堰として開さくされました。
旧鹿妻穴堰頭首工
この御用水堰に鹿妻の名が冠せられたのは、現在の盛岡市南西部に位置する旧鹿妻村地域に引水したことに由来しております。なお、「鹿妻」の語源については、アイヌ語で「はるかな所」という意味の「カッツイマ」が訛り「カヅマ」となったとの説があります。
その後、寛文10年(1670)の初代堰守 吉田甚七(よしだ じんしち)による穴口拡大工事や、鹿妻新堰の開さくを援助するなど、藩がたびたび新田開発の促進を図ったことなどにより、御用水堰もしだいに各地にその枝葉をのばすにいたりました。
「南部史要」(明治44年刊)には、「水利の及ぶところ極めて広く、その末流数十脈に分かる、最も大なるものは上鹿妻、中鹿妻、下鹿妻、新鹿妻の四にして岩手志和両郡にわたり、この水路より畑の変じて良田となれるもの三万石を下らずという。」と記載されております。
旧鹿妻穴堰頭首工取水出口
幕藩体制の崩壊後は、明治19年(1886)に、鹿妻穴堰水利土功会を開設して、それまでの御用水堰の維持管理を継承しましたが、明治27年(1894)には鹿妻穴堰普通水利組合(第1次)が設立され、初めてその管理が民間の手にゆだねられました。さらに明治43年(1910)には、本土地改良区の前身である、鹿妻穴堰普通水利組合(第2次)に組織変更をし、昭和24年(1949)土地改良法の制定にともない、同26年(1951)再度組織変更ののち、現在の鹿妻穴堰土地改良区として発足しました。
西暦 | 和暦 | 主な出来事 |
---|---|---|
1597 | 慶長 2年 | 鎌津田甚六、穴口工事に取りかかる |
1599 | 慶長 4年 | 鎌津田甚六により鹿妻穴堰開さく |
1670 | 寛文10年 | 初代堰守・吉田甚七により鹿妻新堰開さく |
1749 | 寛延 2年 | 三代目堰守・吉田甚之丞により鹿妻上堰開さく |
1886 | 明治19年 | 鹿妻穴堰水利土功会開設 |
1894 | 明治27年 | 鹿妻穴堰普通水利組合(第1次)設立 |
1910 | 明治43年 | 組織変更により鹿妻穴堰普通水利組合(第2次)となる |
1920 | 大正 9年 | 新山野耕地整理組合設立 |
1926 | 昭和元年 | 鹿妻堰耕地整理組合設立 |
1927 | 昭和 2年 | 幹線用水路開さく |
1947 | 昭和22年 | 鹿妻堰耕地整理組合を鹿妻穴堰普通水利組合に合併 |
1949 | 昭和24年 | 新山野耕地整理組合を鹿妻穴堰普通水利組合に合併 |
1950 | 昭和25年 | 鹿妻穴堰開さく350周年祭挙行 |
1951 | 昭和26年 | 組織変更により鹿妻穴堰土地改良区となる |
1960 | 昭和35年 | 国営雫石沿岸農業水利事業起工(昭和46年完工) |
1971 | 昭和46年 | 煙山土地改良区合併 |
1975 | 昭和50年 | 不動土地改良区合併 |
1979 | 昭和54年 | 鹿妻穴堰開さく380周年祭挙行 |
1985 | 昭和60年 | 山王海土地改良区との重複加入解消なる |
1989 | 平成元年 | 国営盛岡南部農業水利事業起工(平成10年完工) |
1999 | 平成11年 | 鹿妻穴堰開さく400周年事業挙行 |
2018 | 平成30年 | 国営盛岡南部土地改良事業起工 |
2019 | 令和元年 | 国営雫石川沿岸土地改良事業起工 |